昭和47年10月02日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」
人間は人を助ける事が出来る。助けるという事にも色々あります。例えば今赤い羽根募金が始まっております。あれは沢山な人が金額は僅かであっても、世の中の難儀な人達の為にと、思い立たれた事でございましょうけれどもね、赤い羽根募金と言うのは。そういう事に協力をするという事も、ささやかながら人を助ける事の働きだと思うんです。けれどもそれはね、例えば人間は人を助ける事が出来るというのであります。
私は信心をさせて頂く者が、人を助ける働きという事ね。だからちょっと助けるという事の意味に於て、本当の助かりという事になりましょうかね。例えば赤い羽根募金的な助けるのであっては、却って弊害が伴うような場合すらあるのです。それに甘えるんです。乞食根性と申しますね。もう乞食を三日したらやめられないというのは、それなんです。ですからそういう、乞食根性を作らせる結果にすらなりかねないのです。只浅い意味に於ての助けるという事は。
金がないから金を恵んであげるとか、貸してあげるとか矢張り是も助ける事なんです。けれどもそういう風、助けるという事ではなくて、最後の所に人間は病気災難の時、神に助けて貰うのであるからと仰る。人間は病気災難の時に、神様から助けて貰うのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよと仰る。是は赤い羽根募金的な助けるという事ではないと思う。先ずは自分自身が助けられる。
自分自身が助かる。神様のおかげで助かる。その助けられたとか、助かるという、その事を受けて、そして助けるという事になるのは、これは、本当の意味に於ての助けるという事になると思うのです。今も昔も同じでしょうけれども。昔の先生方の中には、自分自身の一命を助けられるとか、又は不思議なおかげを蒙ってです。神恩かたじけなしという一念が、やむにやまれん思いで、人助けの為に、人が助かる事ならばというので、お道の教師を志されたというような先生が多いですね。
自分自身が助かってござる。だから私が助かったら神様の言うなら助かると言う事は、神様の願い。難儀な氏子を取次ぎ助けてくれと仰る。難儀な氏子を取次ぎ助けるという事。その取次ぎ助ける事のお役に立たせて頂こう。神様の手にもなろう、足にもなろうというのが、人を助けるという精神なんです。だから自分の持ってるもので、お金ならお金を恵んでやって助けてやるというんじゃなくて、神様が助けたいと思われる氏子を。その神様が助けて下さろうとする働きの、御用に使うて頂くという事なんです。
私は信心でここでおっしゃっておられる助けるという事は、そういう事だと思うです。だからこれは、取次者だけのものかと言うとそうではない。金光様の信心を頂いておる者がです。それこそ、一億取次者とでも申しましょうか。金光教の信奉者が一億おるとするならです。その一億の信者氏子が、吾取次者の自覚に立たして頂いて、そして神様の御用に、神様の手にも足にもならせて頂こうという、そういう念願を、私は振るい起こせというのが、人の難儀を助ける事が有難いと心得てという事だと思うのです。
お金を沢山儲かって、お金で貧乏してる人に恵んでやる。それでは、本当の助かりにはならない。いや、かえって弊害すら伴うのである。けれども、それも、私共人間社会ではです。助け合い運動といったような、運動があります位ですから、それは有難い事ですけれども。教祖がここに教えておられる、人を助ける事が有難いと心得てというのはです。神様の願いを受けて、その願いに立たせて頂くという事が出来る事を有難いと心得て信心せよ。これは有難いと思えますでしょうね。自分自身も。
教祖の神様が、この方は人が助かる事が出来さえすればと仰った。それは教祖様が沢山のお金を持って、人に恵んでやられたといった様なものではなくて、いよいよ御自身がお力を受けられ、お徳を受けられて、神様の願いを願いとして、受けて立たれたという事なのです。今日、ここのところを頂いてみると、人を助けるという事はね。そんな事だという事が、大体分かりましたね。
昨日、午後でした。久留米の古賀さん達が夫婦で、改まったお礼参拝がありました。先日から、奥さんが、医者が時間の問題だという程な病気だったんです。それから慌ててお願いに見えて、それからすぐ病院に入院されまして、もう一時は医者が首を捻るようにありましたけれども。それこそ医者がたまがるように、医者が不思議と思う位に、全快の一途を辿っておられたが、昨日、おかげで退院のおかげを頂かれて、それで夫婦で御礼参拝をされた訳です。
丁度私は、そこんところの、御造営のあっておる廊下の所におりましたら、そこへ見えられました。丁度、昨日は日曜で、みんな、職人さん方、休んでおりましたけれども、電気工夫さんだけが来ておった。奥さんを連れて、三人で来て、電気工事の、御用を一生懸命しておりました。そこに一緒になりましたから、いやぁ今日は、神様に助けて頂いて、命拾いをした人が、二人ここに集まったなというて、話した事でした。昨日からお話し申しますように、二百五十ボルトからの、電気を扱っておった。
もうそれこそ、瞬間の出来事なんです。だから何秒電気をつけるのが早かったら、それこそ黒焦げになって死んでしまわなければならないようなおかげを頂いた。本当に、瞬間の出来事でした。その瞬間に、死ぬるか生きるかの境を通った人なんですけれども。あの人は、全然、信心がなかったから、只、命拾いした、腑がよかったと言うだけで、神様のおかげとは、さらさら思っていない。
又、私も思わにゃいけんよとも、言いもせんし思いもしません。ただ篤く御礼を申し上げるのは私だけであります。丁度そこの所で一緒になりましたから、本当に命拾いをしましたと言うだけなんです。それで古賀さんの奥さんにおかげを頂いて、九死に一生を得たという程しのおかげを受けたという事。それはおかげを受けたから、御礼参拝が出来たというだけではつまらんばいと。だから新たに頂いた命がです、今日の御理解で言うならば、また人を助ける事の為の働き。
神の願いに応えて立たせて頂くという信心。この病気を通して死ぬか生きるかの所を通して、一心の願い一心の信心によって助けて頂いて、おかげを頂いたという事よりもです。その事によってあなた方夫婦が分からせて頂いたという事。信心が一段と進んだという事。その事が有難いという御礼参拝でなからなければ、大した事ないよと言うて、話した事ですけれども。さぁ信心の程度、昨日から申します信心の低迷時代。
私共も何回となしに、ない命を助けて頂いたと実感しなければおられない程しの、おかげを頂いておるけれども。その当時は助けて頂いたからこの命で、神様に御恩返しのつもりで人が助かる事の為に奉仕しょうなんて夢にも思ってなかった。何回も何回も助けて頂いた。信心が低迷だからです。おかげを頂いたと思っておる。昨日の電気工夫さんじゃないけれども。これはおかげ等とは思っていない。ただ命拾いをした腑がよかったとだけしか思っていない。
古賀さんの方になると、おかげを頂いて、親先生のお取次のおかげで、今度は助かったと言うておるけれどもです。それをもってまぁだ人が助かる事の為に、奉仕しょうと言った様な心は、まずないと思います。そこでです例えばお道の教師でも志された。それこそ医者が助からんというところを、助けて頂いたとかもう失明というて、盲になっておった者が、神様のおかげで眼が開いたとか。
その歓喜信心の喜びそれがです。お道の教師にでもならせて頂いて、是からは人が助かる事の為に。あれは畑徳三郎先生でしたかね、世の中の肥しになろうと言う様な、念願を立てられた。自分程汚い者はない。自分のように見苦しい者はないと信心によって分からせてもろうた。その汚い自分が世の中の根肥しにならせて貰おうと言う様な、姿勢と言うか考え方。そこから人が本当の意味に於ての助かりという事になるのです。それで私は今日病気災難の時に、神に助けて貰うのであるから。
人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよと言う所を、本当に自分も助けて頂いたから、神様のお喜び頂けるような御用に使うて頂こうと。一番神様が喜んで下さるという事は、人が助かる事の為の御用であると。神様の願いを受けて、神様の手にも足にもならせて頂こうというのが、お導きにもなれば、その人の為に祈るという事にもなる。そういう殊勝な心掛けと言うか、尊い自分の心の状態になれるという事の為には、只助けて頂いた、おかげを受けたというだけではなれそうにないです。
毎年あれは先月でした。先月の何日かが田主丸の向こうの方から参ってみえなさる、工業学校の先生をしておられます、内野と言う先生。今日は私が九死に一生を得た、神様のおかげで助かった日でございますから、毎年その日にだけ御礼参拝があります。だからその位な事なんですよ。本当におかげと実感しておるから、この日だけはどんな事があっても、御礼参拝をさせて頂くというのです。それだけでも助かったと言うてね。それはもう助けてもらったのも忘れてしもうてというよりも有難いけれども。
年に一遍ただその月のその日に、御礼参拝をするという位の事で、それを信心と言うのではないですね。金光様の御信心は。信心が段々成長して参りましたら、今日言った様に人の難儀が助けられるという事を、有難いと心得てさせて貰う様な信心を、金光教の信心と言うのである。人の難儀が助けるのが有難いと心得てという事は、どうしたならそういう本当の意味に於てのおかげになれるだろうかと思わせて頂いたら、今その事を七十六節は、これは何時も何時も頂く御理解ですからね。
今の人の難儀を助ける事を有り難いと心得てと言う所を、繰り返し読ませて頂きよりましたら、私の心耳に響いてくる事がですね。「やめられないやめられない、とまらないとまらない、かっぱえびせん」と頂いた。あれはテレビで、そういうのを宣伝してますよ。コマーシャルの文句なんです。あれは何かアラレかなんかの、食べ出したら止められないと言う、そんなに美味しいという訳なんです。「やめられないやめられない、とまらないとまらない、かっぱえびせん」
昨日の月次祭の後に、秋永先生が、今度の日曜の日に、もう合楽の信奉者全部で、御用をさせて頂こうと。此の頃から何回も何回も、呼び掛けておるけれども、一向に皆さんが協力して下さらない。段々段々その事を話しておられるうちに、語気が荒くなってきた。私は共励殿で聞かせて頂きよってから、本当自分自身が怒られておるような感じ。あれは秋永先生じゃない神様の声だと思うて、聞かせて頂いておりました。
ひとつ本気で打ち込んで、朝の何時からちょいと帳面消しに、何時から行こうというもんでなくて、腰々と填ってその日は本当にひとつ、御用でもさせて頂いて、兎に角沢山の手が要る事があるんですね。例えば中庭の泥を出すとか、中に砂を入れるとかというのは、入れる所がないのですから。もう何十人の人がかこうやって、手から手に渡って行くような行き方をしなければ、通られない訳なんですよ。
だからその事だけでも、随分な手がかかる事だろう、人数がいる事だろうという訳なんです。それに皆が今日は御用だと言うてもです、集まってみえなかったら、何にも出来ん何人かでは。ですからひとつ、本気で御用を頂こうじゃないですか。十月の声を聞くと同時に思われるのは御本部参拝。それにまぁだあれ程皆さんが言っておるのに、旅費出来んなら出来んでいいから、事務所まで出来ませんからと、一口言うてもらや立て替えもさせてもらう。それも言わずに。
只、名前をあそこに連ねておるだけで、言われない方がまだ大分ある。昨日聞かせて頂いたんですけれども、高橋さんがお金を立て替えて払って下さっておるそうです。そんな迷惑をかけなければならない。どうした事だろうかと。合楽のこれ程の信心を頂いておりながら、どういう事なのかというのが、昨日秋永先生が、皆にそれこそ訴えるように、それは本当に、それに携わっておる幹部の方達はですね。
毎日毎日出てみえてから、やはり歯痒い思いをしておる事なのです。それが爆発的に昨日ああいう皆さんへのお話があった訳です。それを聞かせて頂きながら、私自身もです。本当に、その原動力であるところの、私の信心がです。これは本当に神様に問われておるんだ。神様が拳を振り上げてござるんだという意味で、私は後から話した事ですけれども。拳の下にあるような感じがするんだという事を、共励殿で聞かせてもらいよりましたら、神様からミカンを半分に切ったのをね、生酢をかける時絞るでしょう。
絞っていくら絞ったっちゃ、汁も出らんという感じのミカンを、二つ切ったのを頂いたのです。ミカンを二つに切ったと言やです。菊の花の模様が出て合楽の信心の、シンボルのように言われておる、菊の花と言うのは。それが絞ってありますから絞ったっちゃ。秋永先生が卓を叩いて、どんなに歯痒いと言うておってもです。もう絞ったっちゃ汁も出らんぞという事。よしそれは、秋永先生が、あれだけ言われたから、秋永先生に対してでん行かじゃこてと、言う様な事で来る人ならば、皆さん来ん方がよかて。
怪我どもするなら大ごつと私が。いわゆる有難いというものが、絞っても汁もないごたる人達が、集まって御用したところで、そんならほんなお付き合いのお手伝いのようなものであったらいけない。私がこの御造営が始まる時から、西脇殿の御造営は、信心の御造営ぞと。信心をまず打ち立ててからの御造営でなからなければならないぞと。これはまぁ口癖のように、言ってもまいりましたけれども。私自身が出来てない事を、昨日改めて気付かせて頂いてそこでです。
そんならお互いが、お付き合いでならば、この次の八日の日曜日に出て来ましょうけれども。お付き合いではない有難いが、それこそこぼれるような思いで、御用させて頂くという事になる為には、もう八日間ある。夕べの話で。そこでその八日間の間にです。ひとつ本気で、私共は絞れば汁がこぼれる程しの信心を頂こうじゃないかと言うて話した事でした。それにはね、また新たなもの。いわゆる丸いミカンです。ほんなこと秋永先生が言われる通りと思うたら。
その思いを二つに切らなければならない。二つにするのだ。二つにするという事は、別らかす時に、二つにすると申しましょうが。自分の心の中にこげな事じゃおかげ頂かれん。こげなこつじゃ神様に相済まんというものが、心の中に銘々あろうが。改まるという事なんです。そこでです新たなミカンを、二つに切って、二つにして自分の心から取り外して、私共がおかげを頂いたら、それは御用奉仕だけの事ではありません。
御本部参拝だけの事じゃありません。五年の記念祭の事だけではありません。その記念祭を境にです。私共が改まらせて頂く事によって、二つにしてそこに菊の花が生まれる、喜びが生まれる。それを絞らせてもらうのですから、それこそ有難い勿体ない汁が、それこそ、零れるような思いでの御用でなからなければ、お道で言う御用にはならんのだ。これは、直接ではありませんけれどもです。
御造営が成就する。合楽がいよいよ比礼発展を頂くという事は、そのまま人が助かる事の為に繋がるのであるから、間接的に人が助かる事の為の御用をする事にもなるでしょう。神様は人の難儀を助けるのが有難いと心得てと言う。どういう風な助けてもらっている人は沢山あるけれども。電気工夫さんとか、古賀さん達の場合なんか、確かに新たな命を頂いたというほどしの人なんだけれども。一人は信心がないから、さらさら分からん。片一方は信心があるから分かっとるけれども。
言うならばそれこそ、今日は命を助けて頂いた日として、毎年御礼参拝があるなら、よか方じゃろうと私は思うです。それも一遍お参りをしたから、ひよっとすりゃ忘れるかもしれませんです。信心は続いておっても。助けられたという自覚というが、段々薄うなっていくかもしれんのです。だからそういう助かり方では、人を助ける事まではいけんけれどもです。そういう助けてもらわなければならない程しの時にです。言うならとまらないとまらないやめられないやめられない、かっぱえびせん。
自分の心からそれを改めて取り除くという事は、それは大変至難な事、難しい事なんだけれどもです。かっぱえびせんというのは、かっぱという事は御徳という事。霊徳という事。えびせんという事はえびというのは、いつも最高の修行という意味で頂きましょう。せんという事は沢山なという意味なんです。私共がですただ毎日毎日信心修行しとりますと言うても、本当の改まりが出来ない。踏ん切りがつかない。自分から切り取る事が出来ないと言う様なものではなくて、私は御徳を受ける人達はみんなそれだと思う。
例えば、昔の先生方が助けて頂いた。そしてお道の教師になられたという、簡単なものじゃなくて。助けられる事の為にはです、そんなら盲の人が、目を頂く迄の為には、三年三年また三年と言った様な。ある盲さんが助けて頂かれた、これは事なんですけれども。三年三年また三年と言う様な、一生懸命の信心をさせて頂いておるうちにです。改まる事の出来なかった事が改まられ、磨く事の出来なかった事に磨きがかけられ。そこから初めておかげを実感する。
私は、神様のおかげなしには、今日の命はなかったんだと分かる。その命をもって、神様の手にも足にもならせてもらおう。人が助かる事の為の難儀に取り組ませて頂こうというおかげが頂かれる。そこでそんならここで、人を助ける事が有難いという事は、その助けて頂く迄にです。お互いが本気で改まりもしょう、信心も一段と高めようという姿勢をもって、おかげを受けたという時に、此の頃総会に嘉朗さんが申しておりましたように、永い間悩み苦しみました。
一生懸命信心をさせてもらいました。おかげでスッキリとおかげを頂きました。そのスッキリとおかげを頂いたという事よりも、その間に信心を頂いた分からせて頂いた。鬼に食われて鬼退治という事。鬼に食われる程しの難儀であったけれども。鬼に食われてです一寸法師じゃないですけれども、鬼に食われて鬼退治が出来たという事の方が、有難いんだと言っております。只助けて頂いたというだけじゃなくて、鬼に食われて、自分の心の中におった鬼を退治が出来たという事の方が有難いと言っておる。
そういう、有難いが生まれて来なければ、人の難儀を助けるという事が有難いという事にはなって来ないと思うんです。軽い意味合いに於て言うならば、赤い羽根募金的な、人を助ける事から、それをしなさんなじゃありません。けれどもそれは私は却って弊害を伴うような事すらあるから、祈りに祈ってしないと、さぁ乞食に恵むような事でやったんではおかげにならんと言うこと。それを自分で助けたようにどん思うとるとは、これは信心を頂いておる者の助けるという事ではない。
信心をさせて頂く者の、人を助けるという事は、先ず自分が助けられて、その助けられる迄の間に、おかげを受ける間にです。信心が分からせてもらいました。本当に自分で自分の心を思う時に、自分ながら、二人見るような思いと言う位な自分がです、誕生した時です、それが有難い。その有難いというものにならなければです。人の難儀を助けるといった様な働きにはなってこない。お互いそこ迄おかげ頂きましょうや。この記念祭を迎えるに当たってです。
もう一週間一生懸命朝参りでもして修行をする、お願いをするという事も有難い。けれども一生懸命お願いをするという事は絞っても、も汁も出らんという状態が今の私共の状態ですから。二つに切って一つのミカンを二つに切って、自分の心の中に有る、良い者と悪い物を二つに切って、その悪いものを取り除かせて頂くという修行に、打ち込ませて頂いたら七日間でもいい、八日間でもいい必ずその有難さというものが、どこから湧いて来るか分からん。
有難い汁が零れるような、そういう心意気をもって、御用に当たらせてもらい。御本部参拝におかげを頂き、そして二十日後にあるところの記念祭を頂こう。そこから記念祭を境に、記念祭も有難かったけれども、記念祭を迎える為に、一生懸命の修行も改まりもさせて頂いた。おかげで記念祭も有難かったけれども。記念祭のおかげで、改まらせて頂いた事が、もっと有難かったという事に、気が付かせて頂くと思うですよね。
どうぞ。